第11回公演 十周年記念公演第2弾
鏡よ鏡
作・石澤富子
演出・片寄晴則

スタッフ
舞台監督 富永浩至  照明 富永浩至  効果 武田雅子  小道具 佐久間崇  大道具 富永浩至  
衣裳 坪井志展  メイク 種田栄子 制作 部田泰恵子 上村裕子

キャスト
桜井はな・種田栄子 写真の女1・上村裕子 写真の女2・部田泰恵子 
写 真の女3・坪井志展 盲目の老いた男・佐久間孝 老いた女・坪井志展

とき
1985年11月23日(土)開演午後3時 午後7時  24日(日)開演午後3時 午後7時
12月7日(土)開演午後7時 午後9時  8日(日)開演午後3時
ところ
シアター&喫茶大通茶館(帯広市大通南6丁目)
前売り700円  当日800円  (コーヒー券付き)
 

 

上演にあたって

片寄 晴則
 私達の集団が産声をあげて十年。その節目の年を、とにかく我武者羅に走り続りてみようと、昨年のけいこ納めの総括の中で計画をたてた。
 一、年間三本公演の実現
 二、十周年記念誌の刊行
 三、芝居のプロデュース二本以上
 四、東京への観劇ツア-の実施
以上である。
 前公演「飛龍伝」の延期により、三本公演は実現できなかったものの、今回の公演で年間計画をほぽ消化できそうである。九人の団員でこなすのは、やはりかなりしんどい作業だったけれど、特に記念誌の編集に携わった若い団員達の集団に臨む姿勢の変化が、これらの活動を支えたのだと思っている。さて、「鏡よ鏡」は、『本来、観念ほど生臭く具体的なものはないと信じている』石澤富子氏の作品群に強く魅せられている女性団員達の強い希望で取り上げたものである。それは「木蓮沼」と同じように、女性の情念の世界の中に“昭和”という特代を問い糾すこだわりの姿勢が、あえて問い糾そうとしない時代に育った彼女達をひきつけているのだと思う。
 皇紀二千六百年(昭和十五年)春に自分の晴れ姿を写した「後家になった花嫁」「花嫁になれなかった花嫁」の花婿は「大礼服のあの男」であるという。自分の生き様の区切りとして、その男と弟殺しとが重なってゆく主人公「はな」の狂乱を、お客様にどこまで伝えられることか……。何年後かの再演を頭においてけいこに臨んでいる小生である。


つ ぶ や き

種田 栄子
今年は、今まで目にとまらなかった道端の革花が目にとまった。名前など全く分からないが、小さな花弁をこちらに向け咲いていた。木々の青々とした葉も感しられた。その花も終わり、木々達も幹をのぞかせ冬木にもどってしまう季節が到来してきた。
花屋の店先に季節に関係なく花が並ぶ。つまらない。
 始終同じ花が咲いていてはあきてしまう。目慣れては、花も花でなくなる。
 時節を得て咲くべき時に咲く花、野の花などもそういう意味では楽しませてくれる。
 私自信も咲くべき時に咲く花でありたいと思う。

坪井 志展
 “役者”として舞台に立てる事が楽しくてしかたがありません。私の最大の喜びです。自分の内からなにかがうごめき出すんです。
一ステージごとに、集団は変わっていきます。十周年記念と銘打って始まった今年の活動「自分ごときが……」と足かけ四年の私は思います。
 でも、たった九名しかいないんです。一人一人が地に足のついた行動をとらない限り、集団も芝居も向上はしていかないだろう。そんな中で、自分は一体何をすべきか?自分を信じよう、なんでもできると思おう、せめて役者としてなら自己満足をして、陶酔までしてしまおう、(本当は舞台に立つの怖いんです。自分をさらけ出すのは薄っぺらな自分がみえていやなんです)
 今回の“鏡よ鏡”を演じている私が、私自身です。人間の心の叫びが何を起点に外側に放出されるか?そんな中で私自身の叫びが登場人物の一人の声になり、はさ出されればと思っています。

部田 泰恵子
 今、自分のまわりの世の中に何も不思議を感じないまま、全ての事を“あたりまえ”として過ごしてしまっている。そんな自分自身がとても恐ろしい!
 時代の中に押しつぶされ、誰からも顧みられなくなってしまった女達、彼女達の魂はさまよい続け、鏡の中から私にささやきかける「鏡よ鏡……」彼女達の生きた時代が特別な時代なのではなく、今現在もそれは密かに私のまわりをとりまいている。只、それに気づこうとしていないだけ。「鏡よ鏡、お前の肌に刻んでいこう、彩られた女のかおを……』

富永 浩至
 前々回の公演“木蓮沼”が終わったとき、受付けをやっていた村上祐子女史がいった言葉が頭の隅に残っている。“冬の公演はもうやめてほしい。寒くて、寒くて……”現場の声として真に切実だった。しかし、その声も今回の公演がまた冬になってしまったことで裏切られた。その理由は簡単で、前回の公演“飛龍伝”が二ケ月間延期になったためであり、そのすべての責任はこの私にあるのです。(その辺の事情を知りたい人は、公演終了後、残っていただければ、劇団員が親切におしえてくれると思います)
 日一日と寒さが増してきます。そして増すごとに今年一年がもう終わりに近づいていることを知らされます。今年十二月一日で演研が十年を迎える。十年ひと昔といいますが、ひとつの区切りとして今回の舞台が皆様方の心に残るように、また来年からの演研の活動を斯待させるような芝居にしなければと日夜稽古を続けております。

「タイガース万歳/三浦さんもガンバッテ」
佐久間 崇

 阪神タイガース二十一年振りの優勝には、カープファンといえども心が躍った。聞き分けよく行儀のよいぼんばん集団を叩きのめしてのリーグ制覇おめでとう。はみ出し者(他人はそれを「ひねくれ者」という)には実に小気味がいいのだが、それをサラリーマンの悲哀、アンチ東京と片付けては欲しくない。日本全土をトラ・トラ・トラとフィーバーさせられちゃったこのエネルギーそのものを昇華したい。平静さを装う昭和末期の中で、行き場のないエネルギーたちがあちらこちらに徘徊し、時には突出することもありましょう。
「ロスで突出しちやった三浦さん、あなたも大切な大切な昭和の生き証人、あなたは時代を証明できる気骨のある人なんですから、第四権力のマスコミも逆手に取る人なんですから、どうぞ杖をついたり虫を追いかけたりなどせずに健気に生きて下さいね」
 さて、こちらもそろそろエネルギーを昇華しなくては……。

上村 裕子
 「一日に何度鏡を見ますか?」そう間かれたら、「数えきれないはど」そう答えます。考えてみると鏡に向かってひとりごとを言うことがずいぶんあるみたい…。鏡は心を映しだすもの?自己嬢悪に陥っている時はまっすぐに鏡を見られない。なんとか自分を誤魔化そうと、苦しいことから逃げようとする醜い自分が映るから。自分で自分がわからなくなると、何を望んでいるの?そう鏡に間いかけてみる。すると確かに、したたかに笑う女が存在する。見せておくれ、鏡よ鏡、ちっぽけな私が精一杯輝けるその瞬間を!

武田 雅子
 呼び鈴が鳴り、村役場の人が「おめでとうございます」と言って立っていた。とうとう主人にも赤紙が来てしまった。国を守るためとはわかっていながら、やり場のない憤りを感じている。我々の祖父母や父母がこんな悲しい体験をしているのに、我々はそんな事実がまるでなかった様に平和な今を生きている。二度と操り返してはいけない教訓を次代に語り継いでいかなければならないのに……。戦争……、戦場で散っていった男達の魂、その男達のために身を売った女達の魂、当時をひきずって生きている老人達の魂…、戦争−。平和な世の中だからこそ、いえ、平和だと思わされている世の中だからこそ、今一度当時のことを考えてもらいたいと思う。将来を担う若者たちに……。
 わたしのまだ見ぬあなた、あなたには赤紙など絶対にこさせやしないわ。

村上 祐子
「春を待ち、夏を楽しみ、秋に食ベ、冬に和む」そんな四季折々を楽しみながら過ごすなど近年経験した覚えがないような…。でも身体は間違いなく四季を感しる。何故か演研の公演は、アツーイ時とサムーイ時にする。冬、一時間以上も戸外にいるとかなりつらいです。でも、「芝居が始まる直前の緊張感にくらべたら外に逃げている方が楽かな」なんて考えると、休団生活が身についたなあと感 じるこの頃です。ああ、だめな私。

 

 

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