上演にあたって
片寄 晴則
不思議なことに、一九八三年の「受付」以来、我々が別役実氏の作品に取り組むのにキッカリ5年というサイクルがあることに気が付いた。
日常生活の些細なスレ違いを笑いのオブラートに包んだ別役氏の不条理劇は、読むにはとても面白いが、いざ上演となると一筋縄にはいかないものがある。演出がいくら意気込んでも、それを体現する役者の側に、別役氏の世界やその文体に溶け込んでいく感覚が無ければ、なかなか立ち行かないからだと思う。上演の度にそんな事を思い知らされ、そこから立ち直るのに5年の月日がかかってしまうのかも知れない。
さて、今回は当初、ベテラン上村裕子を配しての取り組みでしたが、諸般の事情から、初舞台となる福澤和香子を起用することになりました。前述のとおり役者の感覚が重要な上、初めての役者体験という重荷を背負いながらも日々頑張っている福澤の姿には、時として悲壮感すら漂っておりますが、苦しむことをも楽しむ気持ちで舞台に立つように言って聞かせているところです。
十人いたら十人の「別役論」があるといわれていますが、不条理は不条理、難しく考えることはないと思います。思い違いから生じる可笑しさを単純に楽しみ笑っていただけたらと思っています。しかし、その「笑い」を生むことが難しい事であり、又、曲者であることも確かです。今、我々はその曲者と戦っているところなのです。
つ ぶ や き
佐久間 孝
この十月四日に、和歌山の毒入りカレー事件絡みなのか、ある夫婦が保険金疑惑でもって逮捕された。これは事実です。そういえば、オウム事件、三浦ロス疑惑のときも、マスコミが事件成立に大きく関わったものと記憶する。報道とは事実を伝える。ワイドショーもしかり。それが、事実の一部でありながらもある種の予見と想像力をもって、十分にストーリーを構築していく。発信者も受信者も了解済みのように。若乃花と貴乃花の視線が合った絵も、近頃ではとんと見せてもらえない。
一方、芝居の方はどうだったろうか、一般的に(特殊な演劇スタイルもあるので)そこに事実は在りません。が、この芝居小屋という暗闇に、何の因果か因縁か入り込んでしまったその時から、非日常というまったく縛りのない(もっとも、途中の退席を許さない構造になってますけど)世界で、事実の中にある真実を歪めるなどという心配もなく楽しめるのはいい、罪もないし…
何かのお役に立てるようなものではありませんけど。これは事実です。
坪井 志展
先日「うしろの正面だあれ」の作者の講演を聞く機会に恵まれた。
別役実氏は、『情報化社会における演劇情報』というテーマで話をされた。機械的メディアの発達している今、演劇情報が見直されつつあるというのである。
役者の身体から、観客の身体へ、共感して、共有する空間で、わからないものの形は、わからないままの形として伝わる。伝わった情報は実際に芝居を観た人から、まだ観ていない人へ感想などで伝わってゆく。
お客様がいて、初めて芝居が成立することを、あらためて確認した。
芝居小屋の空間から、十勝全体に(いや全国に)演劇情報が、波状的に拡がっていったら、どんなにすばらしいだろうと思いをめぐらせてしまった。
赤羽美佳子
私は小学校の時、自信に満ち溢れていた。何でも出来ると思っていた。でも今考えると、そうでもなかった。
スケートは寒くて嫌だった。靴も合わなかったと思う。いじめていた男の子に「スケート履いたらこっちのもんだ」と、突き飛ばされた程ダメだった。好きじゃない事は、出来ないままだった。
芝居の稽古を重ねるうちに、不器用な自分を思い知る。日常何気なく行っていることが、舞台の上では難しい。そして大雑把な日常が出ていると指摘されてはっとする。何をするのも時間がかかる。
今回の舞台では、ゾンちゃんこと福澤和香子と姉妹になる。小屋での稽古後、場所を変え、いろいろな話をしてきた。こんな役者同士で話をしながら創っていくのは久しぶりで楽しかった。日頃の仲の良さ(?)がそのまま伝わればと思う。
柴山 幸恵
今日は、あったかいなーと思ったらその次の日は寒くなるという気温の変化が激しい今日この頃。体調を崩し、風邪をひいている人もチラホラ…。季節の変わり目はつらい季節だ。「うしろの正面だあれ」も、冬から春に変わる季節の変わり目から稽古が始まっていた。今回の公演では、私は照明の仕事をすることになった。へまをしないように気をつけてやろうと思う。
野口 利香
思い起こせば、私は常に人からどう見えるかということを気にして生きてきたようだ。「この服を着たらどう見えるだろう」、「私は今、こうしているがみんなどう思うだろう」etc…。芝居をやりたいと思うのもそのせいかもしれない。他人に対しても表面的な部分を見がちで、深く入り込むことがなかなか出来ない。自分の中に深く入り込むことも。
稽古の中で演出が言っていた「役者とは、あらためて自分と対面する作業である」と。私は自分とうまく対面することが出来るだろうか。日々の生活の中で、新たな自分を発見するなんてことは、そうそうないかもしれないが、それは努力次第なのかもしれない。これから歳を重ねていくうえで、自分の中に良い発見がたくさんあればなあと思う。
福澤和香子
いよいよ初舞台を踏ませてもらう時がやってきました。
今まで芝居を観て「何だあのダイコン」と言ってた自分がよっぽどダイコンだったと気づいたときにはもう遅かった。演じる事の難しさを日一日と痛感させられています。とにかく、今の自分の精一杯を出し切る様に頑張りたいです。
くれぐれも私達のプライベートとオーバーラップさせてくれませんように。……ねっ美佳ちゃん。
富永 浩至
作者の別役実氏は一九六一年から戯曲を書き始め、還暦を迎えた昨年、百本目の戯曲を書き上げた。そんなこともあり、昨年はあちこちで氏の作品が上演され、注目を浴びた。百本も戯曲を書いて困ったことは、どれがどんな作品だったか、とっさに思い出せないことだそうだ。特に氏の場合、登場人物が「男1」であったり、「女1」であったりと、ほとんどが記号であるので、「あの作品の、あの場面の、男3の科白は」と聞かれても、雲をつかむ話になるらしい。「それどんな本だっけ」と、質問者に質問して、「この人、本当に作者なんだろうか」という目を向けられることもあるそうだ。
私ももう何年も前になるが、文学座の信濃町のアトリエで観た氏の作品が忘れられない。保険金を巡って我が子を殺してしまう夫婦の話なのだが、借金取りから逃れるために居留守を使っていた夫が、仏壇の裏からから這い出してくるシーンで特に感銘を受けた。どんな饒舌な言葉よりも、その姿からかもし出される生活感が、全てを語っているように思われたからだ。
いつかはあのような芝居を、と稽古を続ける毎日である。