第63回公演  「芝居」
 作:サミュエル・ベケット 訳:安堂信也、高橋康也 
 演出:坪井志展

 スタッフ
  舞台監督:片寄晴則  舞台美術:坪井志展、富永浩至
  制作:上村裕子、宇佐美亮、熊谷幸太、渡辺くるみ、村上祐子

 キャスト
  男 富永浩至  女1 野口利香  女2 金田恵美


上演にあたって

坪井 志展

 初めてベケット作品を観たのは、一九九一年八月 富山県利賀村の開催された世界芸術祭「利賀フェスティバル91」でした。ポーランドから亡命して、オーストラリアのシドニーで劇団を率いているレック・マキエヴィッツ演出の『ベケット:イン・サークルズ』です。ベケットの作品『芝居』と『行ったり来たり』を再構成した新作で劇団SCOTの俳優三人を起用した日本語での上演でした。当時の観劇記録をみると「舞台上に糸巻、マネキン、木の葉、資料館の立て看板など生活(生きている事)を感じさせる舞台セット。大きな壁に三枚の額。芝居が始まる。人が行ったり来たり、居なくなったり現れたり、転がったり、私たち三人がここでこうしているのは何年ぶりでしょう?とコメント。そして『芝居』のせりふが始まる。さっき歩いていただろう役者三人の顔が壁の額の中一つ一つに収まっている。額の顔の一つに、明かりがあたると話し出す、リズミカルなせりふと暗転の繰り返し。ラストはまた舞台を行ったり来たりの繰り返し。記録の最後に「私はベケットを読んでから出直そう」とあった。
 芝居とは形式ではなく何かがそこに存在する事だろうか、顔とあかりだけで舞台が成りたち、セリフは〈話し言葉〉と言うよりリズムのようだった。でも三人の役者はちゃんと存在している、いやしていた。「自分でこの終わらない『芝居』を演じてみたい」これが、今回の演出のきっかけとなりました。対話もアクションもない。言葉、リズム、テンポだけの芝居、そのなかで語られるのは、どうしょうもない三角関係の家庭劇。
 夜が明けて朝が来る。つぎに夜がやって来るように、始まりがあり終わりがある。そして始まりが終わり。進んでいくと始まりと終わりすら無くなり、ひとつづきになり時間は意味をなくす。
「おれはそもそも……見られてさえいるのだろうか?」という疑問をかかえた芝居に答えはない。再び同じ出発点にたどりつく。
 昨年の暮れより、上演日程を決めずに稽古に入りました。正直、私の演出ではたして公演までたどりつけるのだろうかと不安な日々でした。こうして上演まではたどり着きましたが、皆様にどのように受け入れられるか、または受け入れられないのか?本日はお客様に審判を受ける為に劇場にいます。
 演研・茶館工房へのご来場どうもありがとうございました。
 

 


つぶやき

片寄 晴則
 ここ数年、公演終了時には既に次の企画が決まっている状況が続き、そのノルマを果たすことに追われるあまり、本来、当然抱いていたはずの創造意欲よりも、義務感が先に立っている自分を感じていました。
 そこで昨年、創立三十五周年記念公演を終え、ひと区切りをつけたところで、当面の演出休止を宣言しました。本当に創造意欲が湧いて来るまで、じっと自分と向き合いたいと思ったのが主な理由です。
 そんな中で稽古台本として坪井が推したのが今回の作品です。よりによってベケットとは、ずい分ハードルの高いものを選んだものですが、こんなときだからこそ大いに冒険する必要があるのではないかと思っています。極力口を出さぬよう、でも稽古にはずっと立ち合って来ました。難解な作品ですが、その中に何かひとつでも面白さを見出していただけたら、この作品に挑んだ甲斐があるというものです。本日はご来場ありがとうございます。

上村 裕子
 今回、演出の坪井が「上演にあたって」に書いた「世界芸術祭」を、私も一緒に観ていました。あの日からもう二十年も経ったのだとしみじみ思いながら、今も心に残る良い旅だったと懐かしくなりました。
 あの日、とても不思議な感覚に陥ったことを強烈に覚えています。今なら別の感想も持てるように思いますが、その時は「不思議」という表現でしか言い表せませんでした。繰り返される言葉に、これが永遠に続くのではないかとちょっと怖くなりもしましたが、今思うとそれこそが不条理だったのでしょう。今回、この上演にあたり、そんなことを思い出しました。
 演研は今までにもいろいろな劇作家の作品に挑戦してきました。それはいつも「この作品がやりたい」という一人の情熱や思いを実現してきた結果です。今、集団としての創造活動に足並みが揃えられない自分を申し訳なく思いながら、幾つになっても新しいことに挑戦しようとするわが同志たちをとても愛しく思っています。
 今回、この挑戦に立ち会ってくださるお客様、ご来場本当にありがとうございます。

野口 利香
 考えてみると、いま自分が自分として生きていることも不思議なことですよね。いつから始まって(生まれたときからなんだけど)、いつ終わるのか(死ぬときなんだけど)…… 子供のとき、自分がもし生まれていなかったら、こうして考えてることも何も無くてそうしたら世界も宇宙も存在しなくて、そうしたら全てが無いことになる?そうしたら、そうしたら、えー!てなこと考えて怖くなって、考えるのやめようと思ったことがあります。久々にそのことを思い出して、ちょっとドキドキしました。自分が存在しなくなることを思うと怖い。だからそんなこと考えずに生きるしかない。なーんて、ただ普通に生活しているだけなんですけどね。
 この「芝居」不条理です。何が不条理かって、それはご覧になってのお楽しみなんですけど、「これはいったい何だろう?」って思っていただければ幸いです。
 本日はご来場、誠にありがとうございます。

金田 恵美
 昨年の末から始まったこのベケット作品の稽古。演出の中にはイメージが最初からあったと思うのですが、どんな舞台になるのか想像するのも難しかった自分にとって此処まで来るのは大変な事でした。自分の思いを淡々と吐露するのみ。自分は、この役はどうあれば良いのか。迷いがないとは言い切れませんが、積み上げてきた事を信じて舞台に立てたらと思います。

宇佐美 亮
 小学生のときに大好きだった祖母が亡くなり、一週間泣いていました。そして、その死は、僕にとって「生きる」ということの意味を考える初めての機会でした。誰でもそうでしょうが、「生」は、「死」と対比することにより意味を見出されるものなのでしょう。
 日常を演じ続ける上で、「生」と「死」というテーマに正対し続けることは難しいですが、自分が自分を欺きつつ生きていることのどこかに、根っこのような部分があると信じています。それを少しでも理解したいとあがいていることが、自分の表現に対する欲求になっているし、「いかに生き、いかに死ぬべきか」という命題を解くすべだとも考えています。
 僕がそんなこんなで表現の場所を探し、演研の門をたたいてから、ずいぶん経ちますが、そのころからすでに、この「芝居」は今回の演出が温めてきたという思い入れのある作品です。
 「ゴドーを待ちながら」が有名なベケットですが、人が生きていく上での雑多なことをすりつぶした中にある本質を垣間見ることのできる本作品も僕の好きな作品の一つです。
 演出が変れば、その世界観も変ります。演研の新たな世界をどうぞご覧下さい。本日はご来場ありがとうございました。

熊谷 幸太
 今何がしたいのか分からないまま街をさまよい、大通茶館の二階にある「劇団員募集」の文字を見たのは今年一月の終わり。それを見たときに高校の時にやっていた演劇部の興奮を思い出し、恐る恐る茶館の戸をくぐり、その夜の稽古に参加させて頂いたのが始まりでした。よくよく思い出してみれば、高校の時に演劇部に入ったときも「自分のしたいこと」を迷っていたときに、友人にそのときにはまだ出来たばかりの演劇同好会を勧められたのが始まりで、なんか似ているなぁ、と思ってしまいます。自分が目標と呼べるものを失い、何がしたいのかが分からなくなったときに演劇と出会う。運命ですかね?(笑) ただ、あの頃はただがむしゃらに部活に取り組むことを見つけ出せたのに対し、今はまだ自分のしたいこと、目標は見つかっていませんが……。それでも、きっと何かを見つけられるでしょう。目標と呼べそうな何かを。僕がここにいるのは偶然ではないのでしょうから。
 これからも頑張っていきたいです。

渡辺くるみ
 皆様初めまして。入団してまだ間もないヒヨッコでございます。高校時代多少演劇をかじったとは言え、そのレベルの違いに圧倒される毎日です。そしてそんな中での初公演。微力ながらお手伝いはしてきたつもりですが、お役に立てたかどうか…。とにもかくにも、私は演劇が大好きでここに居ます。そして私にとってはここがスタート地点です。見守って頂ければ嬉しいです。

富永 浩至
 人前に立って何かを演じるためにはそれなりの根拠が必要である。それは自信と言い換えても良い。つまり、これだけ稽古したのだからとか、こんなにも作品のことを理解したのだから大丈夫、というようなことである。
 この本を稽古し始めた頃、つまりまだ役がつかないうちは、とても面白がって読んでいた。しかし、役が決まり、さて自分が実際に演じなければならない段階になると、いろいろな疑問が出てきた。実際、ベケットの作品を演じてきた俳優たちも、作品に込められた意味を知りたがったようだ。「ベケット伝」(白水社刊)にも以下の記述があった。
 「彼はポッツォ(「ゴドーを待ちながら」の役名)の正体、住所や履歴を知りたがった。そういった情報を提供されなくては、ウラジーミルの役をやるわけにはいかないという態度だった。うんざりしたので、ポッツォについては脚本に書かれていることしか知らない、もっと知っていたなら脚本に書いたはずだ、これは他の登場人物にしても同じだ、と言ってやった。」
 いやいや、ベケットさん、言いたいことは分かるのですが、少しぐらいヒントを…。今はそんな気持ちである。
 

 

 

 ●戻る