雑感(演研20周年によせてー)
清水 章子
演研20周年おめでとうございます。時の流れは早いものですね。
私は創立から8年在籍していましたので、退団してから、もう12年が過ぎました。当時の事を振り返りますと、唯、夢中で芝居にのめり込み、生活の総てが芝居中心に動いていたと思います。何と言っても、皆が若かったですから、稽古の後、先輩の家に行き夜遅くまで話し込んで、結局、無断外泊―。本当に、親に叱られながらもずいぶん勝手をしていたと思います。
稽古も今考えると厳しかったのかも知れません。“芝居”という面では、サークル的に仲間同士で馴れ合うという事を律していたところがあったと思います。アマチュアではあっても“本物を目指したい”という姿勢が、強くありましたし、劇団内での恋愛も御法度と言われていました。
仕事をしながら芝居を続けるのは、大変エネルギーのいる事です。まして、集団を組み創造活動をしていくのですから、常に自分が試されることの連続だと思います。“生みの苦しみ”とよく言いますが、“本当の喜び”を手に入れるには、多少なりとも“苦しみ”がつきまとうものだと、今になって、そう思える様になりました。そして、どの様な状況にあっても、大切なのは“自分の有り様”なのでしょう。
今回20周年にあたり「この子たちの夏」の舞台に立たせていただき、私にとって、とても遠くにあった「演研」と「芝居」が少し身近に感じられうれしい想いをしています。
最後に、月並みですが「演研」の今後の御活躍を祈っています。―たかが芝居、されど芝居―ですね。
演研の思い出
和田基興
一九七七年の十月頃だったと思う。その年の四月に就職し帯広に勤務していた私は、仕事の関係の研修会である人物を知ることになり、その人の上司で職場で上司や同僚に後ろ指を指されながらも演劇団を主宰している人がいると聞かされ、たいへん興味を持ったので、一度会わせてもらうことになった。
彼がいまだに演研の代表として活躍している片寄晴則氏である。その頃は、現在のような髭面が多分許されないと思われる会社で働いており、もちろん頭頂部は今より緑豊かだった。
設立からまだ二年くらいしか経っておらず、以前、市内のもっと大きな劇団に所属していたが、演技論や劇団論上の意見の相違などから、少数の同志と計り、その劇団を飛び出し、新たに「帯広演劇研究会」を旗揚げし、すでに何本かの芝居を上演しているとのことだった。
当時の演研は、片寄氏以外の団員はすべて女性であることから、配役上、上演する戯曲が限られるため(注=タカラヅカのように女が男を演じることは禁じられていた)、男の団員が必要とされていたようで、片寄氏は執拗に私に入団を勧めた。その熱意に屈したわけではないが、『木蓮沼』の稽古風景を見せてもらい、入団を決めた。
入団はしたものの、稽古はとても厳しく、自分の肉体的、精神的限界を覚えた私は、結局一年くらいで演研を退団してしまった。
しかし、就職して約半年が経っても無為の日々を送っていた当時の私にとって、演研にいたこの時期は、短い期間ではあったが、とても有意義であり、青春の一幕となったと言っても過言ではない。
片寄氏をはじめ、この二十年間演研を支え、活動してこられた方にはほんとうに頭の下がる思いがする。
これからも引き続き良質の芝居を帯広市民はもとより、広く北海道民に提供し、劇団演研が末永く発展していくことを願って止まない。
私と演研
佐藤(種田)栄子
演研をはなれて十年ほどです。
昭和五十年十二月に演研創立とともに入団し、六ヶ月の基礎訓練、これはなかなかきついものを感じました。早く公演がしたいなあーと当時の私は思っていました。
色々な思い出が数多く残っています。ランチョ・エルパソの二階での公演、今思えば、ひどく狭かったように感じ、シネマアポロンでの時は、だだっ広かったように思います。照明担当をしていた時、ある公演の当日スライダックのヒューズがとんだり、また暗転のはずが照明がはいっていたり、失敗談は数多くありますが、今では楽しい思い出になっています。
今は芝居小屋が出来、演研の拠点も大通茶館からそこへと移りました。しかし、私にとっての演研とは、大通茶館、公演の度、暗幕を張り、椅子を外に出し客席作り、舞台づくり、少々仕事がきつくても何かをやっていることで、仕事もがんばれたように思います。
今は、仕事、主婦、母親、それらのものに追われる一日ですが、たまに観に行く演研の公演、交流会を楽しみにしているこの頃です。
この二十周年にあたるまで演研を支えてきた片寄さんをはじめ、富永さん、上村さん、若手の演研の人たち、二十周年おめでとうございます。これからも演研のパワーを皆に観せて楽しませて下さい。
山内(佐々木)光子
私にとって演研とは何?
あの頃、創立当初の方達の苦労や、演研に対する思いの深さなど、もっと大事に考えなければいけなかったのにと後悔が残ります。
高校一年の時、初めて“木蓮沼”を観ました。手が届きそうな所で芝居をしていて、その日はすごく興奮して帰った事を思い出します。その時、大人になったらいつか演研と思い、そして卒業後、入団させていただいきました。しかし、仕事で土日の休みは無し、残業が多い。特に両親との間で生じた時間の問題では、片寄さんをはじめ、皆様に本当にご迷惑をおかけしました。親となった今ではその気持ちも理解できますが、当時の私には一つの障害でしかなく、かと言って両親を無視する事もできませんでした。
色々、制限付きでの参加でしたが、特に”楽屋”では、セリフを自分の物にする事ができず、もうとにかく頭の中がパニックでした。
悩んだり、絶望したり、でも、自分なりにがんばっている私がそこにはいました。
帯広に帰ると、片寄さんの顔を見て、ああここには、あの演研があるのだと再認識してなぜかホッとして、でも私の知らない現在の演研があって、少し取り残された気持ちになって、それでも演研は無いと、私は困る。
初めて観た“木蓮沼”は、今でも私のあこがれで、私もあの“木蓮沼”をやってみたい。みんなで一つの物を創りあげていく、地味でつらい作業に参加したい。その想いは、確かに私の心の中に残っているのです。きっと、燃焼しきらずに退団したせいかな。
きっといつか帯広に帰りますから(切望)そうしたら必ず公演を観に行きますので、その時には、是非木蓮沼の再演をお願いします。
私と演研
浦(橋本)江里
確か、高校二年の時だったと思うのですが(あまりに昔のことで…)、私が在籍していた演劇部では、高文連で別役実の「マッチ売りの少女」をやることになり、衣装担当になった私は、もちろん洋物っぽい服など作れる訳もなく、どこかの劇団に聞いてみようと思いつき、探し当てたのが「あかねの会」で、そこで衣装の管理をしていたのが片寄氏でありました。
当時、別役の作品ばかりを続けて、世間から冷たい眼で見られる事が多かった我々にとって、片寄氏は結構話の分かるオジサン(失礼!)で、先輩である清水さんとの出会いもありましたが、それまでの事だったと思います。
高校卒業後、帯広を離れ、こだわりながらも芝居に恵まれない大学生活を送っていた私は、その間に片寄氏が新しい活動を始めていることなど知るよしもなく、帯広じゃあおもしろいことないだろうなあと思いながらも就職で帯広に戻り、たいくつな日々を送っていたある日、友達と待ち合わせたのが、会社のそばの喫茶店、オープン初日の喫茶&シアター大通茶館だったのです。それはちょっと運命的でしたねえ。「大通茶館」が「西五条茶館」とか「川西茶館」だったら、私は芝居をつくる立場に立つことはなかったのではないかと思います。
演研に入ってからの二年数カ月、地味な時代ではありましたが、私にとって貴重な経験となりました。その後、演研の芝居を観ることなく十二年を過ごしておりましたが、昨年の札幌公演の知らせ、本当に驚き、うれしく思いました。久々の演研、その事だけでも心踊りましたが、仲々の出来に感動致しました。特に、同期の桜とも思える富永君(入団を考えている頃、一緒に富良野とか行ったもんね)の役者姿、久し振りに見る片寄氏の内股(またまた失礼!)、思わず十二年の歳月を忘れそうでありました。そして、私の隣で観ていた部田泰恵子氏の「やっぱり、やってるモンの勝ちだョ!」の一言が印象的でした。
今後も、客に媚びることなく、演研の好きな芝居を、演研らしく作り上げていって下さい。子供達がもうちょっと大きくなったら、演研芝居小屋にも行ってみたいなナー。
江口 由美
創立二十周年おめでとうございます。このような記念誌に声をかけてもらえるような、長い在籍ではなかったのに、本当に嬉しく思います。残念ながら、私は一度も舞台に立っておらず、思い出と言えば、稽古のことだけですが、忘れられないあの出来事ー。あれは茶館での練習日、大嫌いなマラソンが終わり、何をするのかと思っていたら、突然、電気のコードを長くして、「大波小波」を始めたのです。しかも大通りで……。あ・ぜ・ん・です。当時私は十八才で(思い出したくない程、生意気で、解ったようなことをしゃべる、後ろから殴ってやりたくなるような女の子でした)、他の団員の方たちはみんな年上、なのに、みんな真剣。走っている車は振り返る。でも、みんな真剣。あの夜の事は、私の胸に深く刻み込まれています。あれからもう十二年もたつんだなぁと思うと、なんだか不思議な気がします。あの頃、ずっと年上に感じた、みなさんの年を追い越して、私も今年三十才になります。悲しいかな、芝居とは全く縁のない生活をしています。だけど「いつか、きっと」と、いう気持ちが、ちくちくと、責め続けて止みません。某、TぼいSのぶさんの「由美ちゃん、女は四十からだよ」という言葉を胸に、「いつか、きっと」を抱きしめている私です。今でも茶館でのエチュードを思い出すと、ドキドキします。演研は、私にとって「疼き」ですね。
私が小学生の時に偶然見つけた新聞記事。そこには、ただ「芝居」のために、警察を辞めて、喫茶店を始めた片寄さんが写っていました。おそらく私などには想像もつかない程の情熱で、ひたむきに走ってこられた二十年だったと思います。以前いただいた葉書に「そろそろ若い者に」なんて書いてあったけど、まだまだずーっと頑張って下さい。又、札幌公演に来られる日を楽しみにしています。
部田 泰恵子
二十年とことばにしてしまうと、とても簡単だけど、そこには集団にとって、それを支える団員一人一人にとっても七三◯◯日という一日一日の積み重ねがあり、その時間の重さを思う時、ことばが何の意味を持たないと感じるのは私一人だけだろうか。
私が演研の扉を開けた時、そこには“大通茶館”という居心地の良い空間があり、芝居だけでなく酒の飲み方もゲロの吐き方もクダの巻き方も自分の頭で考えて生きる事も全てを教えてくれる人達がそこにはいた。
そこで私はいろいろな音に出会った。芝居が始まる前に心にシンシンと流れる客音、セリフを忘れた役者が「フ、フ、フ」と突然笑い出す声、あわてながら足音を忍ばせプロンプに走るスタッフの音、何故かそこだけ聞こえない照明のキッカケの効果音、本番中に突然照明が落ちたあとの役者の歌声、どうしてもあがらなかったファスナーの空しく響く音、役者がすべらないようにと塗ったワックスの音、某氏の噂話をしながらむいたイモの皮むきの音、そんな様々な音があった。小屋をもってからは、どんな音が聞こえているのだろう。
演研が小さな空間にこだわり続けているのは芝居が創り手だけでなく、そこに居る観客一人一人と共に創りあげるという事を本当に知っているから?観客として演研の芝居と対峙する時、創り手の時間に負けない時間を自分ももって生きていきたいと思う。
二十周年の舞台で一人の女優が舞台に復帰した、結婚、出産、子育てを経て彼女は再び演研の舞台に立った。これから先もずっと「演研で芝居がしたい」と思わせる演研であってほしい。
私と演研
坪井 志展
八一年入団の私は、当時大学を出たばかりの二十二歳でした。高校の先輩である劇団の代表をはじめ後輩など見知った顔がいくつかあったせいか、比較的すんなりと入団を決心したように思えます。「一度稽古をみて、体を動かして出来ると思ったらやりなさい」
猿川そろばん教室、帯広市民会館、そして大通茶館、そろばん教室や茶館の町内全てが稽古場でした。
毎日毎日夢中にさせられました。むちむちの体にレオタードを付け自分と向かい合う、立って動いて、これは外側。滑舌、朗読など漢字が読めない意味が分からない、これは頭。エチュード、これは心、みーんなさらけ出して稽古に臨む。演研はこれを平気な顔で毎回繰り返すのだ。私はそんな中で必死にしがみついていたような気がする。初めての舞台は、清水邦夫作・片寄晴則演出「楽屋」四人の楽屋に徘徊する女優の話だった。役者になりたかった自分の初めての役が元大女優の役でした。稽古に入り周りの役者が演出の要求に応え、どんどん変化していきました。
早く役を捕まえなくては、自分は何をどんな風に演じたいのか?机の上の物一つ投げつけられなくて、煙草一本吸えなくて、どうしようというんだろう。でも不思議なもので日々の稽古のなかで演出に引き出されのせられて、その気になって舞台に上がったのだと思います。
その感覚が忘れられず、いまでも芝居にしがみついている自分がいます。私の中の演研は二十年の一部ですが、現在持続し続けている劇団員の皆さんに感謝とエールを送りたいと思います。二十周年に係わらせていただき、本当にありがとうございました。
武田 雅子
二十周年記念公演第四弾「恋愛日記」が演研の第三十回公演と知り、この十年で二十本の作品を上演したのだなぁと思うと、時の流れの速さに本当に驚いてしまう。
私が演研を知ったのは二十二歳の時……久しぶりに中学の同級生が帰省した時に「僕の姉が演研にいる」と言っていた橋本君のことばだった。その三年後、豊頃町の演劇サークル「赤い鈴蘭」で活動していた私は初めて演研の公演「ザ・シェルター」「木蓮沼」を観て大きな衝撃を受けたのだった。特に「木蓮沼」ではストーリーを追っても訳が解らず、涙だけが溢れて止まらず何日もボーッとしていたように思う。自分とのレベルがあまりにも違うこの劇団に入ろうとは夢にも思わなかったのに、翌年の四月にはもう入団の意志を代表に伝えていたのだった。
その頃帯広市内で兄と自炊生活を始めたばかりで正式に入団していなかった私は、十周年の記念誌の写真撮影に呼ばれ、ずうずうしくも写真に収まってしまったのだった。その後出来上がった記念誌を見て、十周年の記念の年に加われた喜びと、何も知らずに入団したこの劇団の創立から現在までの事、応援してくれている人達の熱い思いを知る事になった。
小屋に戻り各公演のポスターを見る度、その時何があったのか蘇ってくる。「飛龍伝」では公演が延期になり(誰のせいでしょう)、「鏡よ鏡」では種田さんがお嫁に行き、「檸檬」で初舞台、「花のさかり・・・」で水谷君と坪井さんが去り……。多くの公演の中でたくさんの人と出会って、別れて泣いた日々ばかりを思い出す。初舞台の「檸檬」の公演の後に退団してしまう佐久間さんに「これからは武田が支えていくんだぞ」と言われた事を覚えている。言った本人はもう忘れてしまっているかも知れないけれど、大先輩から言われたことばに嬉しさと寂しさが入り交じり、複雑な思いだった。二十周年のこの年に再び会えて感激している。
芝居小屋ができて新たな拠点ができ、また新しい歴史が加わり、私自身も札幌での生活が始まり演研を離れている。札幌に来てからは「私は演研から逃げ出したのか」と言う自問自答に苦しんだ時期があったが、一生演研と向き合う事になるだろうと確信する。往復四百キロの運転は時には辛い事もあるけれど十勝の広大な大地とそこに根ざし、芝居を愛してやまない人々に向かえられ「明日からもまた生きていける」幸せな自分を見いだすのです。
この十年で上演した作品はどれももう一度観たいものばかりだが、特に「ラヴ・レターズ」が好きで、スタッフ宣言をした私でもメリッサだけは役者で出てみたい唯一の作品。でも「照明も私でなきゃ」と思うと気持ちは複雑……。
身体に気をつけてくださいね。明るく元気な仲間達に又、会いに行きます。
|