第6回道東小劇場演劇祭 アフターステージトーク

※トークの内容を要約しています。そのために畑澤さんの言いたかったこととは違っているかの知れませんので、ご了承下さい。


10月10日(土)午後7時開演
 劇団北芸 「この道はいつか来た道」
  作:別役 実 演出:加藤直樹


トークゲスト:畑澤聖悟氏(渡辺源四郎商店 主宰)

畑澤
 演劇を長くやってますけど、別役さんで泣けたのは初めてです。僕は笑えなかったんです。一つも笑えなかったんです。それはつまんなかったんではなくて、最初から悲しいんです。佇まいが悲しいというのかな。
 別役さんの芝居って、例えば、AとBがいると、AがしゃべるとBが決めつけて、それにAが反論して、またBが決めつけてと、決めつけ決めつけで段々はずれていくというのが、別役さんの不条理劇だと思うんです。でも、この芝居は不条理劇ではなく、さっきまで知らないと言っていたことが、2行あとにはもう知っていることになっている。どういうことなのかと言うことが、最後種明かしがある。その種明かしがあるのが、ああそうだったのかというどんでん返しではなく、不吉な予感としてあの二人が死に向かっているというのがわかる。それはどこにも書いていないのだけれども、死の臭いというのがものすごく色濃く出ていて、見ながら何でだろう何でだろうと思っていたのです。
 別役作品をやる時に、不条理劇の属性の中には、訳が分かんないけど面白いというのがあると思うんです。理解できないけども面白いというのがあって、そこに逃げているパターンが結構あると思うんです。セリフをものすごく戦闘的に言って、相手にぶつけるというエロキューションを使っているのをよく見るんです。ところがお二方とも優しい会話で進みますよね。あの人間の距離のとり方、佇まいそのものが悲しいですね。
 あとは、僕も人にものを教える立場なんですが、高校生や若い俳優によく言うのが感情を先取りするなと言うことです。その後楽しくなったりするんですが、それは戯曲の構造上のことであって俳優にとっては関係ない。今悲しければ悲しくなればいい、とよく言うんです。お二人の芝居は、今知らないということが、2行後には知っているということになった時に、今知らないということがものすごく信じられるんです。なぜ信じられるのかというと、これは俳優の説得力だと。そのことを本当に思いました。高校生や若い俳優には今自分の言っていることを信じろ、信じなければダメだと言うんですが、それはこういう事なんだと思いました。

 


 


10月11日(日)午後2時開演
 劇団動物園 「ホテル山もみじ別館」
  作:鈴江俊郎 演出:松本大悟
 

畑澤
 状況が状況なので、だってそれぞれがエッチしにきているわけでしょ。そういう状況なだけにまずはエロチックだし、皆さん魅力的で、これは二十代には出せない色気で、この色気が分かる僕で良かったと思いました(笑)。
 戯曲にも森ともゆきとフルネームで書いてあるんですよね。作家が指定する役名というのは、人間をどこから見るかと言うことを表していると思うんです。例えば、昨日別役さんの芝居をやりましたが、別役さんだと男1、女1となっています。これは人間を人口衛星から見るように、俯瞰して見てると思うんです。固有名詞は関係なく、人として描くというか。それが例えば、教師とか仕事名がある時は、ちょっとカメラが近づいてくる。富士山の五合目くらいになる。これは、名前が「森」でもなくて「森ともゆき」、「浮田のぶえ」なんですよね。どういうことかなと、見ながら考えていたんですけど、これは彼らの関係性を示していて、人として付き合うというより、生徒と先生だとか、先生と生徒の保護者だったりとか、そういう関係性にしばられているというのが基本にあるんだと思いました。まず、それぞれが知り合ったというのは、多分書類に書いてある名前なんです。「合格、岡野もえ」という書類が上がってきて、調査書に母「岡野まゆみ」っていう文字を最初に見てるんです。だから、書き言葉としての名前が最初に入ってくる。そういうフィルターが二枚も三枚もはさまった人間関係だということを、最初に提出するための作業だったのではないかと思います。つまり、この芝居は「公」と「私」というのが行ったり来たりしているんですけど、そこに「立つ」という言葉が出てくるんですが、公の人間として立つのか、個人の人間として立つのかというのが、テーマだったんだろうなと思いました。
 それと、紅葉というのがね。象徴的なセリフが一番先にあって、鳥とか花とかが色づくのは、子孫を残すために戦略的に行っているだけれども、紅葉っては死にゆく過程の必然として葉っぱは赤くなっていく。その三日か五日後には多分跡形もなくなってしまうだろうという。窓がドーンと大きくあって、ドーンと紅葉がある。そういう圧倒的なものの前では人は素直になるんですね。よくあるんですね、修学旅行に生徒を連れて行って、沖縄の360度海という風景を見ると、感動して思わず告っちゃうとか。圧倒的な大自然の中で、必要以上に素直になってしまうというのがあるんです。そういうことなんだろうなと思いました。

 

 


10月10日(日)午後7時開演
 劇団演研 「驟雨」
  作:岸田國士 演出:富永浩至
 

畑澤
 面白かったです。日常口語ではないので、役者さん大変だろうなと思いました。逆に腕の見せ所というか、シェークスピアをよくやるじゃないですか、色々な劇団で。シェークスピアのセリフって別にその翻訳が悪いわけでもなくて、明らかに書きすぎているんです。そんなこと言わなくでも聞いていればわかるじゃないというようなことまで、セリフで全てを分かるように書いてある。
  イギリス人に聞いたんですが、当時芝居を観に行くというのは watchじゃなくてhearを使ったというんです、当時は。芝居を聞きに行くという言い回しがあって、照明設備もたいしたことがないだろうし、日本で関ヶ原とかやってた頃ですから。だからセリフで分かるようにしたんだって、いうような話だったんです。
 逆に日常口語と離れているセリフをいかに言いこなすかと、シェークスピアにするといかに説明過多だという印象を客に与えないで説得力を持たせるかというのが、役者の技量だと思うんですが、今日拝見してそれと似たような感想を持ちました。
 日常口語でセリフ通り言えば伝わるという世界に慣れちゃってる俳優だと、これはできないだろうと思いました。じゃあ役者の説得力って何だ、という訓練をしていくにはものすごく良いテキストだと思うんです。僕も若い頃、まだ若いですがもっと若い頃に一回読んだのですが、訳わからなくて、えーこれで終わりと思ったんです。さすがに今は、なるほどと、嫌らしいくらいに上手いですよね、台本が。戯曲構造がよくわかりました。
 「驟雨」ってにわか雨とか、通り雨じゃないですか。あれ多分二つの意味があって、一つは恒ちゃんを行かせないための雨。もう一つは、にわか雨、通り雨って言うのは、夫婦をやっていれば、こんな事はあるだろうとこんなのはにわか雨だよ、という旦那ですよね。旦那はにわか雨だと思っている。多分意識してやられていたと思うんですが、最後に雨が降った時、三人の表情が皆違う。旦那にとっての雨っていうのは、にわか雨ですよ。すぐ止むよ、こんなもの。あんなに一所懸命聞いているのに、実際ものすごく耳から耳に通り抜けている。でも、お姉さんの方は、ちょっと自分のことを考えて、この雨はひょっとしたら土砂災害くらいになるかも知れない。堤防決壊くらいになるかも知れない。今までなぜ堤防決壊しなかったんだろうと思い始めている。妹は、この雨は永遠に続くと思っているんです。この雨は絶対止まないだろうと、思っている三人のにわか雨のとらえ方がすごくよく分かって、だから僕はあの瞬間にものすごく拍手をしたかったんです。僕は役者さんにブラボーの拍手をしたかった。

 

 

道東小劇場演劇祭について  

 我々地方でやっていて、地方でやっていることと闘っているというかな、例えば、中学校や高校の芸術教室で、我々「渡辺源四郎商店」が呼ばれることがあるんですが、その時に言われるのが、「去年までは東京の一流の劇団さんに来てもらったんですが、今年は地元の渡辺源四郎商店さんにやってもらいます」みたいな紹介をされるんです。地方でやっている=一流じゃない、みたいな捉えられ方をしているんです。そうじゃないんだと、我々はちゃんとクオリティーはあるんだという事を分かってもらうために、東京で公演もしてるんです。そこは悲しいくらい品質保証していくしかなくて、そうやって歯を食いしばってやって来ているつもりなんです。
 ここに来て、同じく地域でやっている三劇団を拝見して、このクオリティーのあることが驚きなんです。正直うちの若い連中に見せたいと思いました。僕自身も「いかんぞ」と、これはちゃんとやらなきゃいかんと思いました。
 あとは何のために演劇をやっているかと考えるんですね。本当に演劇で身を立てたいと思えば、東京に行けばいいんであって、東京に出て、演劇を人生の中心において、演劇で身を立てる生き方をするべきなんでしょうが、でも僕は青森で芝居をやると決めたんで、青森でやっているんです。僕は教員をやりながらやらなくてはならなくて、他の団員も仕事をして、皆さんも一緒だと思うんですけど、8時稽古開始だとしても8時に間に合わないとか、そのくらい頑張らなければならない。じゃあ何のためにそこまでやらなければならないのかというと、それは演劇を愛しているからとしか言いようがないです。毎日が試金石というんですか、「演劇をおまえは愛しているのか」という試金石がガンガン飛んでくるんです。本当にここに来て、演劇を愛している人たちのお芝居が観られて、お話しもできて、ああ良かったと、一人じゃないんだなということを本当に思いました。だからどうにかして繋がりたいなと思いました。ここで「渡辺源四郎商店」がやりたいと思いましたし、この道東小劇場演劇祭を青森の我々の小屋でやって欲しいと思いました。

 

 

 

 

 ● 戻る