上演にあたって
片寄 晴則
「木蓮沼」……初演時の役者達が三十才を越した時、いつか再演してみたいと思い続けていたレパートリーである。しかし、六年の歳月で団員も入れ替わり、小生も職を変え、父親にまでなってしまった。再演にあたり読み返してみると、以前には見えなかった行間の諸々が、ずい分鮮明になって来、イメージが天空に舞い、ゾクゾクし、かつ難しさに頭を抱える作品である。
劇団創立以来、我集団では、納会で「一年の総括」、初げいこで「今年の抱負」といった事を欠さず話し合って来た訳だが、今年の目標で一致したのが「年間二回以上の公演」。「ザ・シェルター」終了後、次に何を取り上げるかが当然問題となり、そこで若手女優陣(?)から出たのがこの「木蓮沼」だった。前述のように、役者がより熟してからと考えていた小生にどって、彼女らの若さが、生きた年月の浅さがひっかかったのは言うまでもない。しかし、こうして今、上演にまで漕ぎつけたのはその彼女達の若さと、この作品を演りたいという執念だろう。我武者羅に演じるだけで、どこまで理解しているのかは、甚だ疑問ではあるけれど、これをステップに、また次の公演にぶつかってゆこうとしている真向な姿はとても心強い。
つ ぶ や き
種田 栄子
広い広い空に、綿のようなちぎれ雲が白く浮いている。雲は瞬時も同じ姿ではない。色々な形になるが、どんどん薄れては消えてゆく、消えたと思うと、あらたにまた湧いてくる。
なんにもない蒼穹から、色々な形を生みだしてくれる。世の移り変りも、そのようなものかもしれない。
部田 泰恵子 22歳
五年前、大通茶館の扉を開けた私は、芝居を観るのが好きな、ただの女の子だった。そして今、扉を開けた私は、みんなで芝居を創るのが好きなただの女(?!)
稽古の度につかむものの数より、青タンの数の方が、どうしても多いような気がしてならない今日この頃。今日こそは今日こそは、この棒のような身体で、鋼のような髪で、鈍い心で、何かを感じたい、何かを感じさせたい。と同じ扉を開けている私。
坪井 志展
なんて不釣り合いな役を演じているのだろう。けいこに入ってからの数ケ月考え続ける毎日でした。自分が女であることに麻痺してしまっているんです。
八十四年も、あと一ケ月とすこしを残すばかり、私の一年間の集大成です。この小さな暗い空間の中に、スポットをあびて、私生まれかわウます。
はくい女“麻”に……
上村 裕子
ザ・シェルターを終えて、四ケ月。あっという間に過ぎてしまった。夏から秋ヘ、そして冬へと、時は、確実に流れているのに、私は、一歩でも成長しているのだろうか。二十二年間生きてきて、自分が生きてきた重みなどを考えたことがなかった。それとなく・・そんな言葉で表わしてしまうと自分がひどくつまらない人間に思えてしまう。女の女ゆえの哀しさやしたたかさ、いやらしさ、そんな要素をきっとどこがに持っているばずなのに、気づがないふりをして、過してきたように思う。精一杯、女として、舞台に存在できたらとても素敵なことなのに・・・
富永 浩至
“演技にはうまいもへたもなく、どれだけその人が、舞台にたつという根拠を所有しているかの深さの基準で問われるべきである。”と、ある著名な演出家はいっている。たぶん彼が演劇活動を続ける根拠は、彼が過した学生時代が六○年代であったということだと思う。彼はその時代に、ひっかかりを持ち、こだわり続けているのだと思う。
今の時代、今自分が生きている時代にこだわるなにものもなく、まだ過した学生時代にもなにもない自分は何をひっかかりにしていけばよいのか、幸せな時代(?)に生きてきた自分は途方に暮れる。このことに、こだわり続けていきたい、こだわりという事にこだわり続けていきたい。
宮本 佳子
何んとなく入団し、個性的な人達に出合い驚きましたけれども、先輩いわく私も個性的だそうで役者の素質の一つだとおだてられて通ってきてます。
どしどし入団お待ちしてます。
村上 祐子
ただ無我夢中で、ただがむしゃらに演じていた六年前。今また、新たなメンバーで再演する事になり、脚本を読み返してみると、当時は、わからぬままに演じていたという事がよくわかる。大層な人生経験もないけれど「年はとってみるものなのかなあ」と、つくづく思う今日この頃です。
「開演20分前です。」
佐久間 孝
本日は喫茶&シアター大通茶館にお運び下さいましてまことにありがとうございます。つきましては−この度、「来年も見に来てくれるかな?」(不安げに)「いいとも−」(客席からの大反響)「ありがとうございます。」それでは、まもなく開演です。