演研創立10周年記念誌より

これは1985年、創立10周年にあたってつくられた記念誌からの転載です。
創立のいきさつから、創立10周年までの活動について書かれています。

 

記念誌表紙

3650日の演研日誌

文・片寄晴則

劇団結成その前後の事

 『活発な日常活動を持続することにより地域に根ざした創造活動を!!』を旗印に帯広演劇研究会が産声をあげて10年目。これを機に、今までの記録を整理した小冊子を編集しようと、若い団員達から提案があり、私がその歩みをまとめることになった。そこでもう12冊目を数える我々のけいこ日誌を最初から読み返してみたものの、懐かしい出来事、いろいろな人達との時間が甦り日誌に没入するばかりで一向にぺンは進まないのだが、まず、創立の経緯から話してみようと思う。

 「ライフワークとして芝居を位置付け、慣れ合うのでなく自己に厳しく互いに刺激し合うことで過激に芝居と対面してゆきたい」と日頃から口にし、サークルのぬくもりに物足りなさを感じ、「あかねの会」を辞めていた私は、同じく単独で活動していた宮森則子、大内俊弘と共に、個人が自己の能力を高めるための集団を組もうということになった。三人は、規約、方向性など約ニケ月間の準備期間を持ち、その呼び掛けに応じた、種田栄子、村上祐子、清水章子、佐久間孝、小林寿子、須藤芙美子を加え、1975年12月1日、我々は9人のメンバーで出発した。(尚「扉」に所属していた須藤は正式に籍が抜けてから参加することとした)

 とにかく自分にも他人にも厳しく臨もうとしていた私達は、初日のミーティングに菓子を持ち込み宮森から一喝を受けながら、ひたすら基礎訓練に明け暮れた。けいこ着は女性がレオタード、男性はTシャツにタイツ。身体の線がより見えるようにである。最初その姿にテレていた我々も一週間後には各々の脚線美(?)を自慢し合うようになっていた。けいこ場に到着する時間を分単位で競い、前述のとおり、各自が基礎力を貯えるという目標の下、肉体訓練(宮森)発声(大内)エチュード(片寄)のパートリーダーがそれぞれの部門でニケ月毎にカリキュラムを組み、それに従って進歩の度合いを競い合い、互いをライバル視する六ケ月間だった。反面雑多な情報を持ち寄りコーヒーを飲み酒を酌み交しながら、語り刺激し合ううち、集団のひとりひとりが互いに必要な存在となりその結束も深まっていった。

 ところで何故、基礎訓練なのか。それは、基礎を身につけたからといって舞台で輝く役者になれる訳ではないことは充分承知のうえで、今までの活動の中で見落としていた部分を体系的に整え、そして何より基本的な心構えと身体で覚えることに意義を見い出したかったからである。今想うに、何とか10年続いて来たのは、この六ケ月の間に身につけた事柄が、薄らぎつつも脈々と次の新人達に受け継がれてきたからだろう。そんな意味からも、我々の中心として集団のレールを敷き、厳しく思いやりのあった宮森の力は、大きな存在だったといえよう。

 六ケ月間の自己総括文を提出し、その成果として、小品の朗読発表を行ない互いに批評し合って基礎期間を終えた。そして次には実践として「僕らは生まれ変った木の葉のように」に取り組むことになった。

 初めての清水作品に、台詞のリズム感・虚と実のからみ合い等々、暗中模索のけいこ場だった。そしてその間、大内の結婚、佐久間の職場異動による長期欠席、小林の池田町への就職などいろいろな出来事をはさみながら、何とか上演に漕ぎつけた。当日の記録を操ってみると、初舞台の須藤が昼食にラーメンとカレーをペロリと平らげ、そのクソ度胸に全員唖然としたこと・実物の自動車を大道具として舞台にのせるために体力を使い果たし、本番前にクタクタになっていたこと・リハーサル中に食卓の脚が折れ、あわてて替わりを捜し回ったこと・定員400弱の勤労者福祉センター大ホールに立見まで出て入場できず帰ったお客様もあったこと等々。懐かしい限りである。しかし我々にとって何よりの喜びは、しばらくけいこから遠ざかっていた小林も池田町から駆けつけ、9人揃って試演会の舞台に臨むことができたという事実だった。そしてこの公演を土台に、それまで個人の訓練の場という色合いが強かった集団から一歩前進し、本格的に劇団という認識で活動を進めてゆくことで、次の段階へ突入したのであった。

初めての小劇場公演

 さて、創立の際活動の柱として、自分達の公演だけでなく、市民劇場などでは取り上げられにくい芝居を、我々の手で紹介することも重要なことと受け止めていた。そんな中で「黒テント」公演を主催し、その巨大なテントで繰り広げられる芝居に衝撃を受け、血を踊らせたのである。又、自前の劇場「河原館」をオープンし、そこで精力的に公演を続けている旭川の劇団「河」との交流の中で多大な刺激を受けていた私達は、より小さな空間で照明・効果を自分達の手で操作し、舞台だけでなく観客席をも自分達の空間として捕えることのできる小劇場スタイルの芝居をこの帯広でも演ってみたいと思っていた。幸いマスター平林氏の御好意で「ランチョ・エルパソ」の二階を会場として提供して下さるとのこと。創立の際、レパートリー・システムの確立を目指していたこともあり「僕らは―」を創り変え、再演することに決定。我らの初の平場空間への取り組みがスタートした。

 ここで我々にとってのレパートリー・システムについて触れておこう。従来の公演体制はせいぜい一回か二回。半年や一年もかけて創りあげたものを一度きりの舞台で花火のように打ち上げ、ともすればお祭り騒ぎで終ってしまうのが残念でならなかった。本番で観客の反応を知り、やっと行間の感情がわかった時には、もう次の舞台が踏めないというのは余りに淋しいことである。そこで質的な向上のためにも定着したレパートリーを何度も練り直して上演し続けたいということなのである。

 村上と私との結婚をはさみ、キャストを組み替えけいこに入ったが、創立監事の大内が退団、仕事の都合で清水、佐久間が長期欠席。代役でのけいこが進むはずもなく「僕らは―」の再演は断念せざるを得なかった。その間、今後の活動を中心に、仕事との兼ね合い、芝居への関り方などいろいろ意見を出し合った結果、男優不在の状況が今後も続きそうなことを見越し、今度の女優だけの芝居「気をしずめてよおかあさん」を上演することに決定。早速けいこに入ったのだった。だが、一度は活動の再開を誓った佐久間が退団。続いて須藤と新人の折笠洋子も去ってしまった。我々の体質に問題があるのだろうか、集団の方向性についてはどうだろう、又活動が厳し過ぎるのか等々、議論の末「少人数ゆえ独りが背負う責任の大きさを肝に命じ、今後も互いに厳しく臨むことに変りはない」ことを確認し合い、須藤の代役に小林を立てけいこを進めた訳である。

 会場の設営・照明の仕込み、どれをとっても初めての経験であり戸惑いと苦労の連続だったが、待望の男性、和田基興を加えた我々7人は、この20畳足らずの空間を自分達の手で自由に操作する楽しさを味わっていた。初日はあいにくの雨と、観客の割り振りの不慣れと手違いから入場者わずか18名。制作の清水が開演間際まで泣きながら電話で客集めをしていた姿が忘れられない。みぞれ交じりの深夜、自転車で背を丸めて帰る和田のうしろ姿。震える手に調光器を握る種田の眼差し。そして“転身劇”というスタイルと初めての平場空間に戸惑いながらも、客席との一体感を目指し日増しに上昇していった宮森を中心とした役者のがんばりの中、3週に渡る8回の舞台は計258人の動員で幕を閉じた。雑多なトラブルの末、やっと上演できた初の小劇場公演の快感と確かな手応えが、その後の演研の方向を決定的なものにしたといえるだろう。けいこ場を離れた家庭にも、つい役者と演出の立場を持ち込み互いに神経質になっていた私と村上にとって、打ち上げでの酒の味はまた格別なものだった。

三年という区切りを迎えて

 さて、いよいよ三年目に突入。当初、監事の任期も集団の規約も三年聞をメドに活動するという前提があり、この一年は仕上げの意味を持っていた。(もっとも初めは三年間で一本上演できれば上出来と考えていたのだが)基礎訓線で心身ともにクリーニングしながら、次の演目は「木蓮沼」と決定した。場所は引き続きランチョ・エルパソ。小劇場を定着させ、我々も空間処理の勉強を更に積んでゆこうをいう方向性である。しかし、やっと順調に進みかけたかに思えた活動も、集団に拘束されることに苦痛を覚え始めた和田が退団。役者の核である宮森が裏方に回り若手を配した役者も、相互の微妙な意識のズレから、そのけいこにはすきま風が吹いていた。そこで私達が話し合ったことは、我々の活動は公演のために芝居をするのでなく、活動の延長線上に公演があるという位置付けである。当然、公演の延期又は中止ということになった訳だが、ここは互いの気持ちを引き締め直し、本番に向け再スタートしてみようということになった。

 前回同様、空間処理の苦労と楽しみを味わいつつ、作者の描く女の業の凄じさを表現するには役者の蓄積が無さ過ぎることに頭を抱えながらも、本番の日がやって来た。幸い、小劇場公演が知れ渡ったこともあり、各ステージとも30〜50名の動員を記録。役者の熱気に七月の猛暑も加わり場内は蒸し風呂と化していた。初の追加公演を含め、空間のおもしろさ、演技の臨場感など好評のうちに終了したが、我々の心は満ち足りてはいなかった。前述のとおり、役者のアンサンブルに破綻を生じた中でのけいこは、舞台がどう評価されようと我々には虚しいものであり、その結果、公演終了と同時に小林の退団という事態を招いたのであった。

 しかし、もう退団劇には免疫すらでき、ぜい肉を削ぎ落し5人になつた私達は、二週間後には新人志賀千恵子を迎え、レパートリー・システムの確立と、三年間の仕上げとして「気をしずめてよ―」の再演に向けて走り出していた。会場は映画館の二階と決定。ランチョの空間に慣れてしまった我々に、新たな空間がまたひとつインパクトを与えてくれるのではという期待からである。

 初演時の“転身”の配分を組み替え宮森中心の形態を強め、三年聞で全員が舞台に立っという方針どおり、種田もキャストに加わった。装置には工事用の足場を組んでみた。初日入場者180名。予想外の観客に歓喜したものの、狭い空間に慣れてしまった私の演出には、その数は計算の枠を越えていた。しかし翌日は100人の入場となり客席との一体感も取り戻すことが出来た。旭川から駆けつけて下さった劇団河の塔崎氏に、再演での練り直しをやや評価され、新しい空間で、しかも6名の力でやり遂げた自信と喜びの中、三年間の活動にひと区切りをつけたのだった。

 実は私達はその時、創立時の三年間の区切りなど頭になく、そのままの活動の継続しか考えていなかった。しかし、それまで集団を軌道に乗せるため全力を注いで来た宮森にとっては、三年はまさに区切りであり、後輩の遅々たる成長への焦燥、放出し尽したエネルギーの充電の必要を痛感していたのだった。そして退団の意志表明。代表は私であったが、宮森を中心に動いていた団員達の動揺は計り知れないものであり、彼女の抜けた穴を補うべく基礎訓練に汗を流す毎日にも、虚脱感がついてまわっていた。そんな時、村上が妊娠のため休団。ついに実動団員は4名になつた。しかし、4月には新人柴田ひとみを加えけいこ台本として「鞄」の読み合せに入っていた。

 そして1979年6月。思いもかけぬ私の転勤発令。それまで、団員達はもちろん、私自身も帯広を離れることなど考えた事もなかった。団員は少ない、宮森は辞めた。そんな状況の中で私は単身、弟子屈町へ赴任した。残った団員達は、すでに決定していた「奇蹟の人」合同公演のけいこに入ったが、今まで独自の道を歩んで来た演研にとってその活動はどこか燃焼しきれぬものであった。私はというと、新任地での仕事は充実、9月には出産を終えた女房(村上)と娘との生活が始まり充足してはいたが、やはり芝居への、演研への執着は増すばかりであった。そんな時、あるアマチュア劇団の活動を追った番組が放映された。何げなく見始めながらも、番組終了と同時に思わず顔を見合せていた私と村上は、せきを切ったように話し合った。それは、この先、何箇所になるかわからない転勤先で芝居を続けることは可能であるが、自分達にとっての創造活動とは、帯広で演研の仲間達と続ける以外には考えられないこと。帯広に独り居る父のこと、そして多くの友人達のことであった。やはり退職して帯広に戻ろう、そして今までの夢であった自分達の空間を確保できる喫茶店を構えてみようとの結論を出した時、外はすでに白々と明けていた。

我々の拠点大通茶館の誕生

 1980年4月8日、喫茶&シアター・大通茶館オープン。「奇蹟の人」上演後、清水、志賀が活動を休んでいる間、種田、柴田の二人で守り続けた演研のけいこ場にも再び活気が戻ってきた。手始めとして、あすとら主催“詩の朗読会”ヘ参加。会場はもちろん大通茶館。清水の構成による詩の群読はその後の「劇的なる―」への助走であったといえる。その間、大通茶館での出合いの中で部田泰恵子、佐藤ゆかり、橋本江里、石黒明、佐々木光子が続々と入団して来た。また、ここで公演を打つた畜大演劇アンサンブルとの交流も深くなっていた。そして朗読会での三回の発表をステップに、清水の構成・演出による「劇的なるものへの序章」の上演が実現したのだった。

 第一部「小熊秀雄作品集より」は詩の群読、第二部「断片」は関連のない詩をつなげて一つのドラマに構成し、科白として役者が言葉を吐いた時、どう劇的な出合いを構築できるかの試みである。結果は、演出、役者ともに未消化の部分が多く、想いだけが先行した難解で独りよがりの舞台という評価が多かった。反面、こうした試みと姿勢を熱烈に歓迎して下さるお客様も存在した。しかし我々にとっては、団員一丸となりようやく自分達の空間で公演を打てたことが何よりの喜びだった。開演前の緊張と、終演後、30センチの積雪の中をころげ回りながら雪合戦に興じていたひとりひとりの晴れやかな表情が今も脳裏に焼きついている。尚、初日の88名という入場者数は、50平方メートルに満たないこの大通茶館での映画、コンサートを含めた公演史上、未だに破られていない。今後も破られることのないであろう記録である。

 こうして集団としての弾みはついたものの、その後の活動の中では、芝居への意識、集団への執着、拠点へのこだわり等、どれをとっても、創立からの団員と若手の間にはわずかずつ、ギャップが生じていた。原因はいろいろ考えられるが、「営業を軌道に乗せるまでは一歩後退したところでしか活動に参加できない」と宣言し、事実そのとおりであった私の立場が、問題を大きくしていたのだと思う。そんな中で、志賀、石黒、柴田が去り、新しく坪井志展がメンバーに加わったのであった。

 そして、良くも悪くも、私が強引に集団を引っぱってゆくことを決心した時、「楽屋」の上演も決った。そのために、けいこは9時以降の深夜体制となり、それが現在まで続いているのである。自分達の拠点としての空間の利をどう生かすか、そこにどんな光を投げかけるか、最後に出現する無数の鏡達にどう生をあたえるか、又、役者はどこまで本音としての科白をものにできるか各々に苦闘しつつも、確実に我々の心に何かを残して幕は降りた。53年の「気をしずめてよ―」以来、実に4年振りの演出を務め、しかも自分の生活の場でその上演を成立させた私には、尚更感慨深いものがあった。

 その後、清水が病気療養、橋本、佐々木が結婚のため退団したものの「楽屋」を観た佐久間が再入団を果したことは、集団はもちろん、私にも大きな力となった。続いて上村裕子も迎え、翌年には「受付」を上演。試演会以来の男が登場する芝居である。しかも畜大を卒業し帯広に残った富永浩至も加わり、効果の操作も初めて私の手を離れた。ところで、舞台の出来はというと、別役の言葉の透明感を、演出、役者ともに消化しきれぬままの不本意なものだった。そして千秋楽。ひとりの観客が目に涙を浮かべ「入団させて下さい!」と言って来た。若干18歳の和田由美である。その場で作業衣に着替え撤収を手伝う姿は、もう立派な我々の仲間だった。

 集団としての確かな手応えを持った私達は、公演の反省を終えるとすぐに「僕らは―」の再演のけいこに突入した。しかし、2月の公演を目の前に立ち稽古を重ねる11月、実然清水が、集団との違和感を理由に退団。「僕らは―」は再び中止に追い込まれた。半年後、彼女は結婚した。だが、集団の結束が固い時には立ち直りも早い。次回作を「ザ・シェルター」に替え、走り出していた。

 それまで凝縮する芝居が多かった演研にとって、拡散する笑いのあるこの作品への挑戦は、ひとつの転機になったかも知れない。久し振りに役者に返り咲いたものの仲々エンジンが掛らずヤキモキさせた種田、軽妙なリズムで笑いを誘った佐久間、富永。堂々初舞台を飾った上村、明け方まで照明の手直しを続け、しかもチョッピリ声の出演もしたスタッフ群。全員の熱気に包まれたシェルター内に警告灯が点滅し、核爆発の硝煙が立ち込める中、幕は閉じた。前売りの売れ行きから早々に追加公演を決め、夜10時開演の深夜興行が定着したのも、この公演からだった。おまけとして、千秋楽の撤収作業中、開演時間を間違えた河の塔崎氏と黒テントの服部氏がやって来た事を報告しておくことにしよう。

 休む間もなく、若手三女優のたっての希望を受け入れ、試演会として「木蓮沼」の再演を決定。通常のけいこの合間をぬっては集まり、自主けいこに励む姿を横目に、未熟な彼女達が女の深淵をどこまで表現でさるかとの不安を抱いているうちに、あっという間の三ケ月が経ち初日を迎えていたのだった。そして、舞台一面に咲き乱れる木蓮の花と、舞い散る雪の中、彼女達の熱演で幕は降りた。女の凄じい生き様と対面し、女として自分の生き方を深く考える機会を与えてくれたこの「木蓮沼」を終えて、彼女達の意識は確実に変わったようである。そして、当初は無理と思っていたこの作品を、そのがんばりで何とか上演し終えた三人を抱きしめた瞬間、次の世代の足音が、私には確実に聞こえたようだ。次回作「飛龍伝」に取り組む一方で、この記念誌編集作業に勢を出す姿からもそれは伺い知れる。

 10年、長かつたようで、あっという間の10年。

演研で芝居をやり続けることが出来て本当に幸せだと思う。そこには、いろいろな人間との出逢いがあり、雑多な出来事があった。何故、こんな面倒な作業をやり続けるのか、何故芝居に関り続けるのか、明確な答など私には出せない。只、今の私に言えることは、戯曲の中に描かれている人間を探るのが好きだ。そしてその集団作業に身を委ねている人間達が好きだということ。この先、どこまで続くかわからない我々の作業だが、相変らず同じような問題に直面しつつ、それを乗り越える遅々たる歩みを持続したい。そんな中で次の10年を迎える時、若手に邪魔にされながらも、その後をくっついて行く自分が存在できれば、それもいいだろう。いや、そうありたいと願っている。

 演研に在籍した多くの団員達、それを支えてくれた素晴らしい友人達、そして私達の活動を応援して下さつているお客様。本当にありがとうございました。そして、これからも、未長い御支援をお願い申し上げます。より良い舞台を創り上げることで私達の感謝の気持ちを表わし続けてゆきたいと思っています。
 『活発な日常活動を持続することにより地域に根ざした創造活動を!!』

 帯広演研一同

●戻る

●第10回公演へ

●表紙へ戻る