上演にあたって
片寄 晴則
二十三年前の五月、私は広島の平和記念公園に立っていた。早朝五時だというのに、すでに大勢の地元の人々が公園内を掃き清め、平和の日
に祈りを捧げ、線香がたちこめる光景に胸が熱くなった。そして、あの日のように、日差しが強く雲一つない青空に一斉に飛び立っていった鳩の姿が、今でもはっきり目に焼きついている。
「この子たちの夏」の自主上演が、全国各地のお母さん逹によって行われている話を耳にした時、是非この帯広の地で自分達の手で、被爆五十年のこの年に上演したいと思い続けていました。そして今回「地人会」の協力をいただいて実現できたことを本当にうれしく思っています。呼びかけに応じて参加して下さった都甲さん、久保田さん、久し振りに舞台に立つOGの清水、村上。そして三十歳を過ぎた演研の面
々が、それぞれの生きてきた年輪を重ね合わせて読み継いでいく稽古では、ついのめり込んで絶句してしまう事も度々ですが、努めて冷静に事実を読み伝えたいと思っています。
戦後五十年、今こうして繁栄の中に生きる私達が忘れてはならない多くの人々の死。ヒロシマ・ナガサキで生きていたあの子たちの夏を、短い命を、その母たちの悲しみを、今もなお原爆症に苦しむ人たちの姿を語り継いでいきたい。そして生きていることの素晴らしさを、本日お越しの皆様と分かち合いたいと、切に思っています。
つ ぶ や き
村上 祐子
初めて原爆の恐ろしさを認識したのは、母親の体内で被爆し、二十才の成人式を迎えた子供たちの姿を、テレビで観た時でした。こんなところまで影響が出るものかと唯々驚きとやり切れなさを感じたのを覚えております。
この脚本を、娘として、母としての部分からしか理解することができず、どこまで原爆の悲惨さを伝える事ができるのだろうかと不安でいっぱいです。
結婚、出産、子供の通園、通学などにより、○○さんの奥さん。○○ちゃんのお母さんという肩書きでしか活動する事のなかった私にとって、村上祐子と言う固有名詞で、この芝居に参加させていただけるという事を、今回仲間に加えて下さった方々、そして、芝居を観に来てくれたお客様に心から感謝しております。
上村 裕子
私が原爆を認識したのは、小学3年生位だったように思います。学校の図書室で借りた本の中に、「ヒロシマの少女」(多分、そういったタイトルだったと思います)というのがありました。読みながら、とてもショックを受けた事を覚えています。
岩崎ちひろさんの挿絵でしたが、その少女の悲しい顔が今も忘れられません。あれから二十年以上の歳月の中で、戦争、原爆にまつわるいろいろな事に、本や映画、TVでふれその度に涙してきました。
今回、この上演に当たり、また知らないでいた戦争体験にふれることになりましたました。しかし、ここに書かれてあることも、多くの犠牲者のほんの一部のことだと思うと、さらに胸が苦しくなります。
戦争を知らない世代ではありますが、書かれてあることをありのままに、語ってみようと思います。
坪井 志展
同僚の女性が退職する事になった。広島で被爆し、入退院を繰り返していた母親を自分のところに引き取る事になったという。身近に原爆を感じた。亡くなった人も、病んでいる人も又、その周りの人たちも未だに戦っているんだという事を、初めてほんの少し実感した。「この子…」の稽古をしていると、会った事もない同僚の母親の事が浮かんでくる。そして、やり切れない気持ちになる。戦争を知らない世代の私だが、こうして今、この作品に参加できた事を、自分の内にしっかりと刻み込んでゆきたいと思う。
久保田 房枝
観る事が大好きだった私はいつも、上村さんになったり坪井さんになったり、時には富永さんになったような気になって演研のステージをじっと観ているのでした。ところがある日、私は台本を手にすることになりました。初めての稽古の日、のどはカラカラ、肩はガチガチ、他のメンバーの声はまったく耳に入りませんでした。そう、これは私にとって新しい体験でした。今までの人生にはなかった、新たな挑戦!そんな高揚した気持ちを胸の底に沈めて、今、「この子たちの夏」を読んでいます。二個の原子爆弾が生んだ悲しみが忘れ去られる事のないように…。
清水 章子
演研を退団してから十二年がたちました。今回、演研の二十周年記念企画のこの公演に声をかけていただき、十三年振りに舞台に立つ事になりました。稽古が始まるまで本当に不安で、身体が震えました。今でも、不安な気持ちに変わりはありませんが、少々開き直って、ただ舞台に集中するのみと思っています。
私は戦争を知らない世代ですが、理不尽に命が奪われる戦争の悲惨さや、愛する家族を失う悲しさは分かります。一言、一言の言葉に心を重ね、じっくりとていねいに、心を込めて朗読することができたらと思っています。そして、自分も含めて、今、こうして命あることの喜びを、少しでも伝えることができたらと思っています。
都甲 雅子
戦後五十年という節目の年…「この子たちの夏」という作品を通して、戦争の悲劇を、また世界で初めての被爆国としての体験を次の世代へ語り継いでいきたいと思います。稽古をしていても(私も二人の子を持つ親ですから)劇中の死んでいった子供達にわが子が重なり、いつも涙を流してしまいます。会場には戦争を知らないお子さん達も大勢いらっしゃるでしょう。戦争とは、どんなに大事な人達をうばうものか…悲しみを知って、平和を守っていってほしいものと思います。そして私たち大人も、この事実を風化させてはいけないと思います。
結婚以来いつも朗読や、ひとり語りの舞台でしたので、今回演研の皆さんと御一緒の稽古日は、指折り数えて待つ心境でした。又いつの日か、演研の皆さんと御一緒に芝居を創る機会がありますようにと、願っております。